「十日えびす」を前にした正月五日、人形遣い達の祖神、百太夫神を祭る境内末社・百太夫神社(ひゃくだゆう じんじゃ)で、百太夫神社祭が執り行われます。えびす様の信仰が今日のように全国に広まったのは、室町時代以降西宮の散所村(現・西宮市産所町)に住んでいた人形遣い達が、えびす様のご神徳を人形操りに託して全国を廻った事が大きな要因の一つと考えられています。この人形遣い達は、江戸時代になると西宮を離れ淡路島に移ってしまい、現在は国の重要無形民俗文化財に指定されている淡路島の人形浄瑠璃や大阪の文楽となったと言われています。百太夫神社は、元は境外散所村にありましたが、天保十年(一八三九)に境内に遷座した日、一月五日を記念して祭典を行い、人形に見たてた五色の団子を特別にお供えします。現在、跡地(産所町、えべっさん筋)には記念碑と百太夫の銅像が建っています。例年、祭典に引き続き関係の深い淡路島や阿波からえびす舞を伝える団体が参拝し、御祝儀舞、三番叟・えびす舞などの人形廻しを奉納します。
慶長期以前から六甲山山頂には白山権現が祀られ、石宝殿と呼ばれていました。六甲山一帯は古くは廣田神社の社領であり、此れの分社・遥拝所として寛政元年(一七八九)、浜南宮の中に勧請されました。
「大國主西神社」とは、延喜式神名帳・攝津国菟原郡にある大國主西神社とも言われているが、元は境内の阿彌陀堂という仏堂で、享保二十年(1735)、大己貴命 少彦名命二柱を勧請し神社にしたとものとされている。明治七年十一月、「西宮神社」「大国主西神社」共に県社と定めるとの指令があり、西宮神社の境内に同じ県社の大国主西神社が存する関係であったが、社務社入を司る祠掌は西宮神社に在り、戦後は当然の如く大国主西神社は社格を持たぬ神社として、西宮神社の境内神社となっている。
元は境内外の洗戎(現・荒戎町)に鎮座、明治五年境内現在地に遷座したものです。通称「あらえびすさん」と親しまれていますことから、えびす様の荒御魂を祀っているとも言われています。
ここから一キロメートルほど南の海岸近くにある。西宮の人、當舎屋金兵衛が築港の大事業を起こすに当り、文化二年(一八〇五)海上運輸、漁労の安全繁栄を願い住吉の大神を勧請したとされている。七月三十一日は住吉神社夏祭が行われ、船だんじり(山車・壇尻)を子供らが引いて、西波止町近隣七町を回ります。
貞享三年(一六八六)の絵図にも火之大神とあり、通称愛宕さんと呼ばれ火伏せの神として信仰されています。尚、享保十七年(一七三二)、当時の神主が垂加神道を奉じた人であったゆえ、若林強斎と山本復斎の霊社を合祀したとされています。